出雲大社と聞いて思い出すのは、大きな切り株のようなものの横に座る巫女さんの写真。その大きな切り株らしきものは”宇豆柱(うずばしら)”といい、昔々、出雲大社の本殿を支えていたというのです。
その”宇豆柱”が東京国立博物館の【出雲と大和】で展示されると知り、ぜひその大きさを体感したい!と行ってきました。
Contents
開催概要
展覧会名 | 日本書紀成立1300年 特別展 出雲と大和 |
開催場所 | 東京国立博物館 平成館 |
開催期間 | 2020/1/15(水)〜2020/3/8(日) 前期:1/15(水)〜2/9(日) 後期:2/11(火・祝)〜3/8(日) |
開館時間 | 9:30〜17:00(入館は16:30まで) 金曜日・土曜日は21:00まで(入館は20:30まで) |
休 館 日 | 月曜日、2/25(火) ※ただし2/24(月・祝)は開館 |
公式サイト、公式ツイッター | |
出品リスト | こちら 前期・後期で一部作品の展示替え、頁替えあり |
第1章 巨大本殿 出雲大社
宇豆柱、心御柱
会場に入ると、もう目に飛び込んでくるのが”宇豆柱”、そして”心御柱”。
2012年に今回の展覧会と同じく東京国立博物館で開催された【出雲―聖地の至宝―】では宇豆柱のみ展示されたそうです。
そのときに”宇豆柱”が展示ケースに入るまでの様子を綴ったブログを見つけました。
”宇豆柱”は2000年に出雲大社の境内から発見され、出雲大社本殿遺構の棟を支えていたと考えられるそうです。1本の直径約1.3メートルの杉の木を3本で1つの柱にしていたということは、相当な大きさの本殿だったんだろうなぁ!!宇豆柱は出雲大社本殿を支えた9本の柱の
平安時代には本殿の高さが48mあったそうなんですが、現在の本殿は24mということなので、その倍の高さ!
境内地下を流れる豊富な地下水のおかげで奇跡的に当時の姿をとどめて出土しました
〜島根県立古代出雲歴史博物館より〜
なるほど、そういう偶然があったのですね。
平安時代の出雲大社の本殿はこういう構造だったのではないか、という模型も展示してありました。高さもさることながら地上から本殿までの階段が長いこと!階段部分は約109mあったのではないか、と。斜面だし、上り下りが大変だっただろうなぁ。
上記のブログにも書いてありますが、木には穴が開けられ、削られ、一生懸命に柱を加工し立てようとしていた平安時代の人々の痕跡が残っておりました。
”宇豆柱”と”心御柱”が揃って展示されるのは初めてのこととか。もしかしたら、揃って展示されるのは大きさと柱の状況からして今回限りかもしれない、と聞くと見に行かずにはいられません。
会場を出る前に、もう一度じっくり柱を見ようと思っていたのに帰宅してしまったのが悔やまれます。
ところで、”宇豆柱”の”うづ”って??と思ったら解説が。
「うづ」とは、古語や祝詞で「尊いもの」「大事なもの」
という意味で使われている言葉です。
なるほどー!
手斧、釘
巨大な柱の周辺より大型の釘や鎹(かすがい)なども発掘されたそうです。本殿の建築に使われたのではないか、と。また手斧(ちょうな)は”宇豆柱”の直下に置かれており、実際に使われたものではなく柱を立てる際の儀式的なものに使われて埋められたと考えられているそうです。
出雲国杵築大社御神殿天井八雲之図
雲が7つなのに”八雲”というのは、「多くを意味する”彌雲”に由来するという説もある」という説明をメモしてきたのですが。”彌雲”という言葉をインターネットで検索してみたけれど引っかからず。はて、漢字を写し間違えたかしら??
御簾
私のメモには「縁には八雲や龍が。ポン・デ・リングか?」と。
まったくの謎です。金具の部分がポン・デ・リングのように見えた部分があったのかもしれません。メモするなら、ちゃんとメモして自分。
こちらには”一重亀甲剣花菱”という紋が使われているそうです。
写真が見つかった!
なるほど。金具ではなくて、縁の部分に見える白いボールが集まっているかのように見える模様の部分がポン・デ・リングに見える、ということだったようです。良かった、良かった、一件落着(?)
御櫛笥および内容品
化粧道具一式も展示されていました。蓋には大きく「有」の文字。これは一体??と思いましたら、”二重亀甲有字紋”といい、出雲大社の神紋のひとつなんだそうです。家紋は一家族にひとつだと思うのですが、神紋はいくつかあっても不思議じゃないのかしら??
下記のブログで写真が見られます。
いいなぁ、内覧会。私も内覧会へ行ける人になりたい。
第2章 出雲 古代祭祀の源流
加茂岩倉遺跡の銅鐸
加茂岩倉(かもいわくら)遺跡で発見された銅鐸の埋納状況復元模型があり、写真撮影可能スポットになっていました。
キッラキラで、なんだか落ち着かない感じがしたのですが、そうか、私が今現在見ている銅鐸は錆びているからですね。埋められた当初はこんな感じだったのかしら。
加茂岩倉遺跡は、現在の島根県雲南市加茂町岩倉にある弥生時代の遺跡だそうです。
1996年、農道の工事中に偶然発見され同一箇所から銅鐸39個が見つかったとか。
内訳としては45㎝前後のものが20個、30㎝前後のものが19個とのこと。
そして、大きい銅鐸の中に小さい銅鐸が”入れ子”状態で見つかったそうなんです!
銅鐸のマトリョーシカ!?どんな意味があったのでしょうねぇ。
模型の写真をよくみたら、ちゃんとそれも再現してありました。
今回、加茂岩倉遺跡で発見された銅鐸が30個展示されていたそうなんですが。実は、大きさが違ったということなのかしら……。
出品目録を見ると、展示No.42-1で17個とNo.42-2で13個。あれ、どういう展示の配置だったかしら。会場内、見渡す限りの銅鐸と銅剣で、ちょっと記憶が……。
銅鐸の文様は、大きく①流水文(りゅうすいもん)と②袈裟襷文に分類されるそうです。個人的には流水紋も好きだし、袈裟襷文も好きだなぁ。袈裟襷文には鹿、そしてウミガメの模様も!ウミガメ!!
ショップで購入した絵はがきにはウミガメの面は写ってなかった。残念。銅鐸って、形自体が美しいですよねぇ。今まで、そんなにしみじみ見る機会がなかったのですが、今回の展示でつくづくそう感じました。
そうそう、ウミガメ。なぜウミガメ。
加茂岩倉遺跡は海に近いといえば近いのか。(下の地図を少々サイズダウンしていただくと海が見えてきます)
トンボが描かれた銅鐸もあるようです。今回の展示にもあったのかどうか、記憶にないのが辛い。
番外編:ポリバケツ発見?
銅鐸を最初に見つけた作業員の方は、パワーショベルで掘削中に異様な音とともに青色の物体
銅鐸のなかには、このパワーショベルの跡がついたものもあるとか。ちょっと、そういうのも見てみたい。さすがに今回の展示ではなかったかもしれないけれど。そういうのがあると印象深くって、お子さんとかも面白い!って記憶に残るんじゃないかしら、なんて。
荒神谷遺跡の銅剣・銅鐸・銅矛
加茂岩倉遺跡と荒神谷(こうじんだに)遺跡は直線距離にして約3.3キロほどしか離れていないそうです。
こちらは1983年に広域農道の建設に伴って遺跡の調査をしていたところ、偶然に須恵器という古墳時代の土器を拾ったことが発端で、1984年に銅剣が発掘されたそうです。
発見当時、日本国内で発見されていた銅剣が全部で300本ぐらいだったのに。なのに、この荒神谷遺跡では一箇所で一気に358本出土したというから驚きです。
発見当時と思われる写真が、↓こちらで紹介されています。
説明に「刃を立てた状態で4列」に並んで埋納されていたと書いてありましたが、写真で見るとその量に圧倒されます。今回は358本中168本の銅剣がずら〜っと展示されていました。あまりの量に感覚が麻痺し、(なんだかワカメに見えてきた)とかメモってあります。
銅剣の「茎(なかご)に刻印がある」という説明があったので、「なかご??」と思いつつ必死に銅剣を見ていたら、やっとこさ「☓」の刻印を見つけました。本当に、根っこの方でした。ちなみに☓印があるのは358本のうち344本とのこと。
「☓」がどこにあるかは、↓こちらのブログを参照ください。
荒神谷遺跡の凄さは、銅剣の本数だけでなく。銅剣と銅矛が一緒に埋まっているところも1985年に発掘されたそうです。銅剣と銅矛が一緒に埋まっている例はないそうで。なぜ、わざわざ組み合わせて埋めたんでしょうねぇ。
番外編:銅剣ってこんなに綺麗なんですね
荒神谷遺跡から発掘された銅剣の成分を分析して、そのとおりに鋳造するとこんなにも美しい銅剣ができるそうです。
これが358本並んでいたのか……さぞかし綺羅びやかな光景だったでしょうねぇ。
番外編:銅鐸って、どんな型から作られるの?「同笵(どうはん)銅鐸 」って?「兄弟銅鐸」??
島根県立古代出雲歴史博物館って、すごい。
写真も説明も豊富にフェイスブックに載っていて、ものすごく面白い。
すごく現地に行きたくなってしまいました。
志谷奥遺跡の銅剣・銅鐸
柿の木の根本に銅剣と銅鐸……。すごいなぁ、まさにお宝が眠る土地。
志谷奥遺跡は島根県松江市にあるそうです。
西川津遺跡の人面付土器
伝出雲出土 銅鐸(眼があるんです)
2012年の展覧会にも展示されたそうです。
初めは眼が分からず、じーっと銅鐸を凝視。眼と目があったあとは、もう睨まれている感じがしてしまい、そそくさと展示ケースを離れました。
勾玉・管玉・貝輪
勾玉、綺麗なんですけど子供のころからどうにもその形が苦手で。勾玉で嫌な思いをしたとかまったくないのですが、なぜなんでしょう。
ま、それはさておき。管玉の方は、ローマ帝国領内のガラス素材が中国で管玉に再加工された可能性もある、と。そこから繋がっているんだ!と興奮しました。
出雲弥生の森博物館が保管している青い勾玉も美しかったです。
勾玉の下にある腕輪のようなものが、貝で作られた”貝輪”で出雲市の猪目洞窟(いのめどうくつ)遺跡から出土したものだそうです。
なんでも猪目洞窟は日本海に面した洞窟で、弥生時代後期(約1800年)前から古墳時代終末期にかけては墓地に利用されていたとか。この貝輪も亡くなった人が身につけていたようです。
貝の種類は沖縄諸島でとれるゴホウラ貝の殻を縦切りにして腕輪に加工したそうです。吉野ヶ里遺跡でも、同じような貝輪が発見されているとか。ゴホウラ貝も見られるホームページを見つけました。
絵画土器
弥生時代、ヘラで土器の表面に絵が描かれた土器が発見されているそうです。今回の展示では、”鳥装の人物”そして”建物とシカ”の絵画土器が展示されていました。
鳥装??と思ったら、鳥の仮面をかぶった司祭者の姿とのこと。
奈良県にある田原本町教育委員会作成の『弥生の絵画』というPDFの資料がありました。色んな絵画が紹介されていて楽しいです。
第3章 大和 王権誕生の地
下池山古墳の内行花文鏡
下池山(しもいけやま)古墳は奈良県天理市にあるそうです。
展示してあった内行花文鏡(ないこうかもんきょう)は今まで見た、どの鏡よりも大きい鏡でした。写真は、こちらで見られます。直径37センチとこちらに書いてありました。どうりで大きいわけですね。
神原神社古墳出土の三角縁神獣鏡
この鏡には「魏の景初三年(239)」という年号が記されているそうです。
中国の歴史書『三国志』「魏志倭人伝」には239年(景初3年)魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したとする記述がある
〜Wikipediaより〜
なるほど、これが魏の皇帝から卑弥呼がもらった鏡!と思いきや、Wikipediaには続きが書いてありまして
しかし、中国からは1枚も出土せず国内で既に540面以上も見つかっていることから、魏から下賜されたものではなく国内で創作され大量に複製されたものと考えられている。もし、魏から下賜されたとすれば年代的には平原遺跡から多数出土している方格規矩四神鏡、内行花文鏡、画文帯神獣鏡のいずれかに類似したものであろうと言われている
〜Wikipediaより〜
なるほど。まだ色々と説が分かれているようで。
確かに100枚もらってきたはずなのに、すでに540枚以上見つかっているというのだけでも、素人の私からしても「あれ??」と。
神原神社古墳と加茂岩倉遺跡も近い場所にあるそうです。
島根県は、どこを掘っても遺跡がでそうな勢いですね?!
黒塚古墳出土の画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡
特設ショップで購入した絵はがきです。黒塚古墳出土の画文帯神獣鏡・三角縁神
この絵はがきのデザイン、とても洒落ているなぁ。
特設ショップでは刺繍缶ミラーなるものが売られていて、しばし悩みました。
つぎは「画文帯神獣鏡刺繍缶ミラー」。古墳青銅器好きのあこがれアイテムのひとつでもある神獣鏡を、気軽に持ち歩けてしかもふだん使いしやすいサイズの缶ミラーにしました。表面は一度刺繍を施して立体感を付けた上に、高精度プリントを施して不思議なリアルさにーっ!!(早口#出雲と大和 pic.twitter.com/PzvLfgFKzh
— フェリシモおてらぶ (@foterabu) January 14, 2020
メスリ山古墳の玉杖・銅鏃など
奈良県桜井市のメスリ山古墳から出土した品々の写真は、こちらで見られます。銅鏃は、こちらが分かりやすいかも。
玉杖が”ぎょくじょう”、鏃が”やじり”と読むことを学びました。
メスリ山古墳の円筒埴輪
円筒埴輪、人生で初めて見ました。しかも埴輪のイメージを超える大きさ。
公式ツイッターさんのツイート。3枚めの写真をご覧ください。
— トーハク広報室 (@TNM_PR) January 14, 2020
びっくりするほど大きいですよね。
メスリ山古墳は4世紀前半頃に作られたと考えられていて、後円墳丘の周囲を2重の円筒埴輪が取り巻いていたとか。円筒埴輪は高いもので2.4メートルあるというから驚きました。
それにしても、メスリってどういう意味なんでしょうねぇ。所在地の住所も奈良県桜井市大字高田字メスリってなってるみたいなんです。
埴輪 見返りの鹿
よほど、振り返った鹿が印象的だったのか。可愛かったのか。
普通に立っているところではなく、このポーズで作ったところに古代の人たちの工夫というか、ものづくりの面白さを感じました。
子持勾玉
びっくりしました。何かの生物を模したものかと。
松江市二名留2号墳出土の”子持勾玉”。
勾玉に子持。古代の人々も、色んなことを考えるなぁ。
須恵器 出雲型子持壺
勾玉が子持なら、壺だって子持です。
双龍環頭太刀
島根県安来市の「かわらけ谷横穴墓」出土の太刀。
番外編:古代の鏡を見て思うこと。「映るんです?」
古代の鏡を見ていると、必ず思うし、必ず「鏡の面ってどうなってるのかな」「本当に映るのかな」って会話してる人たちに遭遇します。
ですよね。
答えが、こちらに。
第4章 仏と政(まつりごと)
萬福寺(大寺薬師)の四天王像
奈良・石位寺蔵 浮彫伝薬師三尊像
まず驚いたのが、大きさです。ホームページとかで見て想像していたよりも、はるかに大きい。そして、ものすごく美しい。
1,300年間、門外不出だったという像だからこその綺麗さなのかもしれません。
「レプリカなんだっけ??」と思ってしまうほど、美しい。そして、美味しそう。
いや、美味しそうっておかしいでしょ!と思われるでしょうが。なんといいますか、口の中でほろほろっとほどける和三盆のお菓子みたいな、そんな感じなんです、石の感じが。
まぁ、その場にいた人でそんなこと言ってる方は、誰一人いらっしゃらなかったけれど。
「思ってたより大きい!」という感想が一番よく聞かれましたけれど。
形も三角っぽくて、おにぎりっぽくて美味しそうに見えたのかもしれません。あれ、お腹空いてたのかな私。
そして唇や衣装に残るほんのりとした赤い色が、完成当時どんな色合いだったのかなぁと。薬の瓶が、左端にちょこんと置かれている表現も微笑ましい。
そして、横から見るととても厚みがあることがわかります。
お寺のホームページに、今回の展示風景の写真が掲載されていました。
中国初唐期に流行した”塼仏(せんぶつ)”を巨大化したもの、と説明にありました。小さいレリーフを、なぜに巨大化しようとしたのか。興味深いです。
このグッズも欲しかった編
今回の展覧会に、まったく関係ないのですが。
すごい可愛いですよね、このポチ袋。全種類欲しいです。
島根県立古代出雲歴史博物館、行きたい。
まとめにならないまとめ
思い起こすと、人生で3回も出雲大社へ行っているのに。
こういった遺跡があることを、全く知らずに、全く見ることもなく素通りしていたことが猛烈に残念でなりません。
古代出雲の謎に迫るバスツアーが、また開催されるなら是非是非参加したいと思います。
帰宅して、また色々と調べているうちに今回の展示がいかにたくさんの出土品が展示されていて、その展示ひとつひとつに見どころがあって、もう1回ゆっくり見たい!という気持ちがひしひしと湧いてきいる今日この頃です。
再度行くなら2/11(火・祝)から始まる後期展示かな……。