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『チューリップ・フィーバー』映画と原作本を比較しつつ感想

※ 記事内に商品プロモーションを含んでいます

 

『チューリップ・フィーバー』の舞台は17世紀のオランダ。
当時、珍しいチューリップの球根は投資の対象となり、異常な高値で取引され球根1個が邸宅1軒分に相当することもあったとか。

そのチューリップの球根への投資に、自分たちの将来を託した2組のカップルが登場する映画『チューリップ・フィーバー』。

私が、この映画を観ようと思った理由は3つ。

  1. オランダはチューリップが有名なことは知っていたけれど、過去にチューリップ・フィーバーなるものがあったことを知らなかったので面白そうだと思ったから
  2. 主役のアリシア・ヴィキャンデルさんという女優さんが好きだから
  3. フェルメールの絵画の世界が表現されているらしいから

確かに、フェルメールの絵を彷彿とさせるシーンが随所に!
この映画を観たあとに上野の森美術館で開催中のフェルメール展へ行ったのですが、絵のなかの登場人物たちがまさに動き出しそうに見えました。

左側の窓から差し込む薄暗い光、扉の外から覗き見るような構図や床、絵のなかの絵(画中画)。
フェルメールブルーを意識した衣装や真珠の耳飾り、机に広げられた敷物の感じ、ほかには窓辺で手紙を読むシーンなどフェルメールの絵を連想させるものが映画には随所に取り込まれていました。
そして小説と映画共通の設定なのですが”女主人と女中”という関係性が非常にフェルメールっぽいなと感じました。

映画を観終わり、購入したパンフレットを読んでいましたら。
あら!私ってば見落としてるのかしら??伏線を正しく理解できていなかったのかしら?!という箇所がでてきまして。
これは原作も読んで設定を確かめたい!と思い、原作本も読んでみることにしました。

原作を読んだネタバレなしの感想は、映画では分からなかった細かい設定を補完できるし、また映画は映画ならではの世界観、セット、衣装の良さなどがあるので両方楽しめてよかったな、と。

原作を読んでみると、映画と原作はここの設定が違うんだな、ここはこちらの設定のほうが好きだな、という点がいくつかありましたので書いてみようと思います。

※ ここから先は、小説と映画両方のネタバレを含みますので未見の方はご注意ください。

簡単に映画の主な登場人物紹介

 

役 名 俳 優 役どころ
ソフィア・サンツフォールト アリシア・ヴィキャンデル 物語の主人公
コルネリス・サンツフォールト クリストフ・ヴァルツ 主人公ソフィアの夫。お金持ち
マリア ホリデイ・グレインジャー 夫妻の家で働く女中
ヤン・ファン・ロース デイン・デハーン
夫婦の肖像画を描く画家
ヘリット ザック・ガリフィアナキス 画家の下男(映画のパンフレットでは友人と書いてありました)
ウィレム・ブロック ジャック・オコンネル 魚の行商人。マリアの恋人
ソルフ トム・ホランダー 医師
聖ウルスラ教会 修道院長 ジュディ・デンチ 修道院長かつ球根販売も手がける

映画と原作本の違い

 

映  画 原 作 本
語り手 女中のマリア 登場人物が入れ替わりで語る
主人公ソフィアの境遇 孤児として修道院で妹たちと暮らす 印刷業を営んでいた父が多額の借金を残して死去。妹は2人
主人公の信仰 何を信仰しているかは出てこなかった? カトリック(旦那とは信仰が違う設定)
主人公の夫 ・チューリップの球根への投機に興味なし
・目が悪いということは出てこなかったはず
・魚料理が多くて愚痴をこぼす
・球根への投機で一儲けしている
・目が悪い
・愚痴はこぼしたが、実は魚料理大好き
修道院長の存在 存在感大 出てこない
女中マリアの恋人 ・思わぬ幸運で高額になるチューリップの球根を入手し、アドミラル(提督)の入った名前をつける。
・海軍に無理やり入れられる
・アドミラル(提督)という名前の入ったチューリップの球根に投資し大儲け
・自ら志願して海軍に入隊する
女中マリアの野望 さほど明かされず しょっぱなから全開
主人公と画家が2人きりで言葉を交わすのは チューリップを画家の部屋へ主人公が届けた時 主人公が市場で買い物をしていた時
画家の女性関係 特に出てこなかったはず 結構な遊び人
画家の弟子 出てきたかどうか覚えてなくてすみません やや存在感あり
ソルフ医師 結構な存在感、コメディ要素あり 最初は架空の医師をでっち上げ、最後の方でソルフ医師を雇う
画家がチューリップを盗もうと忍び込んだ先は 修道院 チューリップ栽培業者
画家の下男 直接食べる描写なし 薄く切ってニシンと食べた

語り手

原作では、登場人物が入れ代わり立ち代わり喋るので誰か1人だけが際立つといった感じはしませんでした。

映画では、マリアが誰かに向かって話しかけています。それが、最後の最後で自分の娘にむかって”娘の名前の由来”を語っていたんだな、ということが分かります。
個人的には、この映画はマリアが主役といっても過言ではないぐらいにマリアの存在感を感じました。マリア強し。マリアこそ主役。

主人公の境遇

原作では父が借金を残して亡くなり、家族のためにも自分がお金持ちの年上の男性と結婚することを選択したという設定です。母親も妹たちは、そのおかげもあって生活できているようです。

映画では孤児として修道院で暮らしていたけれどお金持ちの年上の男性と結婚することで妹たちをアメリカの親戚のもとへ送ることができた、という設定。

どちらも自分の人生を犠牲にして家族を救うということ、そして自分自身も苦しい生活から抜け出せたことに対して夫に感謝をしているけれど期待されている男の子を授からず思い悩む……、という根幹の設定は変わっていませんでした。

主人公の信仰

原作で触れられているカトリックだから云々といった宗派の違いによる考え方の違いなどが分からない私にとっては、そのくだりから読み取るべきものが残念ながら読み取れていないので、本当はもっと意味深いことが書かれているんだろうと思いつつ……字面を追うだけになってしまいました。

映画では二人共熱心なキリスト教徒なのだなという部分は十分に伝わりました。夫妻の信仰が違うという話には触れられていなかったので、私にとっては頭がこんがらがらずに済みました。

主人公の夫

原作と映画で、一番描かれ方が違っていたのが主人公の夫だと感じました。

原作ではチューリップの球根への投資をしていたのに、映画では興味が無いことになっていて。
もしも映画でも夫が球根への投資をしていたという設定だったら。
夫が話していた投資の仕組みや方法を、主人公が恋人の画家へ教えて投資の腕を上げるのに役立つ、という展開も面白かったんじゃないかしら、とか。私の勝手な妄想ですが。

ただ、映画では投資の指南役として原作には登場しない人物を用意し、またその登場人物が個人的には大好きでして。その人の話は、また次の項目で。

修道院長の存在

原作には登場しない修道院長。映画では主人公ソフィアはこの修道院育ちという設定になっていました。
演じるはジュディ・デンチさん。

先ほど、画家に投資を教える人物うんぬんと書きましたが。
それが、デンチさん演じる修道院長であります。チューリップの球根を盗もうと修道院の庭へ忍び込んだ画家をノックアウトするシーンでは思わず笑ってしまいました。
ただひたすらに祈るというよりは、ゴットマザー的な感じで、すごく現実社会を冷静に受け止めてらっしゃる。
もちろん信仰に篤い方だとは思うのですが、どうしたら女性が世の中を生き抜いていけるか、ということをとても考えているようにみえました。画家を修道院のなかへ通したときに「生きにくためには嫁ぐか、身を売るか」といったセリフもあったような。
もしDVDになったら、もう一度見直してみたいと思います。

個人的には、もっともっとこの修道院長の出番が多かったらなぁ、と。
たとえば、修道院にいるときの主人公に世の中の世知辛さを教えたり(冒頭で、子供さえ産めば安泰的なセリフはありました)、チューリップのことを教えていたりしたら、もっと面白かったんじゃないかと勝手に想像してみたり。

というのも、原作ではチューリップの投資を画家に薦めたのは主人公で、1ヶ月後には投資した3倍ものお金が手に入った、と書かれているんです。なので、もう少し主人公の商才がある部分をだしても良かったんじゃないかな、と。
個人的には、Rー15指定になった理由であろうシーンを減らしてそっちを入れて欲しかったな、なんて。

女中マリアの恋人

マリアの恋人である魚屋さん。もう、この方が一番善良で最後の最後に幸せになって本当に良かったなぁ、と。幸せになったのは、ちゃっかりもののマリアのおかげでもあるのですが。

原作では、高値のつくチューリップをうまく売買して大金を入手する設定でしたが。
映画ではもうひとひねりあって、ただの白いチューリップを数十個購入して、そこから高値の球根を買っていく予定のはずが。そのなかに高値となるチューリップの球根が1つ混入していたから、さあ大変。
修道院長もビックリ。でも、修道院長は約束だからと、ちゃんとその球根を魚屋さんに引き渡すという。

そして高値で売れたあと、魚屋さんは「思っていた以上にお金がはいったから、多い分は修道院で使ってください」と修道院に寄付。そこがまた素晴らしい。
なのに、自分の恋人が他の男性と付き合っていると勘違いして……ヤケ酒してお金をすられた挙げ句、海軍に入隊させられてしまうという。
原作では、お金をすられヤケになった彼は自ら志願して入隊するのですが。
はて、この違いはどんな効果を狙ってのことなのかな?と。

女中マリアの野望

映画では、女主人のドレスを自分の胸にあてて鏡を覗くシーンで「自分の将来が写っているとは、そのときは知らなかった」的なセリフだけでしたが。

原作では、もう最初から「旦那さまと奥様が死んで、この家が自分のものになればいいのに」的なことが書いてあります。おそろしく、ハッキリとした願望というか野望。まぁマリアにすれば、どうせ叶いっこないからという想いもあったかもしれませんが。

個人的には、映画の設定のほうが好きでした。魚屋さんの彼との間に6人子供が欲しいという願いが叶ったことを、最後のシーンで映像で見せるという手法が良かったな、と。さすがマリア、不言実行。

自分が妊娠したとき、彼は行方不明だし、女主人は自分を守ってくれる気配もないことに絶望(女主人は女主人で、自分にはマリアを守りたくてもそんな権限がないことを分かっていたからなのですが)。「奥さまと画家のことバラしますよ!」と脅迫。そして言い放つ「沈むときはいっしょですからね」。

このセリフの何がすごいって、「沈むときは」なんですよね。沈まなかった場合は、知りませんよ、私は私の幸せ掴みますよ、という風に受け取れる気もして。
つまりマリアは自分に与えられた幸運を精一杯に活かしただけであって。女主人が駆け落ちした(と彼女は思っている)あと、どこで何しているか分からないけれど、それを気にかけてる感じとかは映画でも原作でも私は感じなかったというか。
もちろん、マリアが女主人と画家を救いたくとも救える状況にはありませんでしたが。
その割り切り感というか、ちゃっかり感が凄いなマリア、恐るべしと思ったのでした。
映画では、主人公たちが霞むほどの強さを感じました。

入れ替え出産のために、だんだんと主人公をこき使うようになり(主人公も流産されては計画が壊れるので言いなり)、あげく原作では奥さまと呼ばずに”ソフィア”呼ばわりした、という記述まで。マリア強し。

「我が子のようにお育てします」って、堂々と夫に言うところとか本当にすごかった。

画家の弟子

原作にのみ登場したと思われる画家の弟子ヤーコプくん。
彼はヤンのもとで一生懸命に絵を描き、ギルドの試験に受かりたかったのに。なのに、師匠のヤンときたらモデルの女性しかも人妻との情事に忙しくて絵も教えてくれないばかりか、途中で自分を放り出すという。

やるせない怒りを抱えていた彼の前に現れたのが主人公の夫。画家の居場所を聞かれたヤーコプくんは、あっさり告白。バチがあたればいい、と思ってのことでしたが残念ながら、それがかえって画家を救うことになったことを彼は知らないのでした。

ソルフ医師

原作では、最後の最後の方で少々姿を現す医師のソルフ。

映画では、なかなかにコメディタッチといいますか、ふざけたことして主人公に何回も平手打ちくらうけれども、頼まれた仕事はちゃんとこなすのでありました。

画家の下男

画家の下男ヘリット。心優しき、お酒大好きヘリット。
高額なチューリップの球根をタマネギだと思って食べてしまったヘリット。

原作では「それはタマネギじゃない」と忠告されるも聞いてなくて、薄切りにしてニシンとともに食べてしまったという記述が。

映画では、お酒を飲むまいと我慢していたもののつい飲んでしまい……というところで場面が終わり。画家の家へ帰ってきたときに、食べてしまったことが判明するという。
ちょっとだけ、飲んだくれながらも球根を持ち帰ったへリットを期待しつつも、あぁやっぱりヘマしてしまったんだな、という間が味わえて個人的には映画の方が好きでした。

原作での年齢

原作では登場人物の年齢が書かれていました。

主人公のソフィアは24歳で、女中のマリアと同い年。主人公が14歳のときに父が亡くなり、22歳頃に夫と結婚(結婚3年目という記述がありました)。

夫は61歳。先妻は40歳ぐらいで死去、二人の子供にも先立たれている。
主人公との出会いは5年前で、取引のある業者が結婚適齢期の娘が3人いるということで紹介してくれた家の長女が主人公だった、と。

主人公と出会ったとき画家のヤンは36歳。1600年生まれで1661年没。
1648年9月の時点で12年前にソフィアが死んだ、という記述が。

映画では主人公が結婚した3年後が1634年という設定になっていました。
微妙に設定の年がずれているのですね。

夫の謎

① なぜ妻や女中を疑わないのか?

主人公は子供が欲しい(できれば男の子)、マリアは未婚なのに妊娠がバレたら田舎にも帰れない。そこで主人公が編み出した”出産入れ替え計画”。
自分が身ごもったことにして、マリアの子を自分の子供として育てるというもの。ただ、マリアは大柄だからとか、当時の服装はゆったりしていることもあり妊娠していても気づかれないだろう、ということだとしても、さすがに夫を欺くには無理があるのでは?と。
そして、前妻が妊娠したときに見ているわけですから、さすがに主人公が妊娠しているかどうか分かるのではないかしら??と。
ただ、夫が自分に近づけないような策を主人公が用意するから大丈夫といえば大丈夫なのですが。

原作では夫は目が悪いという設定で、女中が妊娠していることに気づかない&そもそも女中なんて見ていない(それもどうかと思いますが、当時はそいういう感じだったんでしょうか)という。
なるほど、その設定が映画でもあったらもっと納得したかもな、と。

② 夫は良い人なのか、それとも……?

映画を観終わった直後、私のなかでは夫の高感度がものすごく高くなっていました。
なぜなら、妻が出産で苦しむ様子を心配し(本当はマリアが苦しんでいたのですが)「子供より妻を助けてくれ」と医師に頼むからです。前妻の出産のときは「妻よりも子供を」と願ってしまい、妻が亡くなってしまったことを密かに後悔していたから、と。そのせいで、自分は主人公との間に子供が持てないんだ、とも思っていたようで。
その部分は原作にはないのです。

そして映画では妻が自分を裏切っていたこと、自分の子ではないことを全て分かった上で、マリアに自分の家を残し(表向きは、”自分の娘”に残したことになるのですが)若い命でこの家を満たして欲しい的なセリフがあって。そして自分は旅立った先で新しい家族を作る、と。
夫は夫なりに幸福を掴んだんだな、良かった、良かった、と。

しかし。

映画のパンフレットを読んでいたら、主人公が妊娠中に仕事で家を出たのは”ユトレヒトの女”に会いに行ったのだ、と。
私、完全にその部分を分かっておりませんでした。完全に仕事なのかと。
そういえば途中で2回ほど”○○○○の女”がどーのこーのというやりとりを友人らしき人としていましたが。(私のうっすらとした記憶では、ユトレヒトじゃなくて、ヨハネスなんちゃらという地名だった気がしたのですが、はて??)
昔関係のあった女性のことを忘れていはいないけれど、今は若くて美しい妻もいるし、と思っているのかな、と。
ですから主人公が妊娠中に浮気していたこと、もっと私が分かっていたらそこまで夫の評価は上がらなかったかもしれません。お互い様だよね、と。

原作では、前妻の出産時に子どもの命が助かるように願ったという部分はありませんでした。浮気のことも、まったく出てきません。
なにしろ、最後は妻と画家が船で国外へ逃げようとしているのを画家の元弟子から聞き出し、ひそかに同じ船へ乗り込んで画家を殺そうと目論むのです。そして妻とやり直そうと考えているのです。怖い。これは妻へのひたむきな愛なのか、嫉妬なのか。

最終的には、妻と画家が乗船予定だった船に夫だけが乗船しようとする場面で原作は終わっています。その後、夫は病で亡くなってしまったとか、結婚はしていないけれど家庭を持っているという噂がある、としか出てきません。
妻と画家の逃亡作戦を夫に教えた画家の元弟子であるヤーコプくん。自分が夫を乗船させたことにより、復讐したはずの元師匠の命をむしろ救っていたという皮肉。

主人公と画家の結末について

映画では、急に自分の計画したことが恐ろしいことだったことに気が付き画家と落ち合う前に自宅へと戻る主人公。
しかしそこには、自分を死んだと思い込み、残された我が子を愛おしそうに抱く夫の姿。
それを見た主人公は、もう自分の居場所はないと悟り姿を消します。

原作では、画家と落ち合うも計画の失敗を知り自分たちに天罰が下ったのだ、自分たちはこのまま逃げるわけには行かないと1人決心した主人公は、ひっそりと画家の前から姿を消します。

主人公が外套を脱ぎ捨て河に投げ込むことで、画家に自分が死んだと思い込ませるところは原作も映画も同じです。
つまり主人公は二度死ぬことを演じることになったわけなんですね。なるほど。今、書いていて深く納得。

映画では、それから何年後かに画家として成功したと思しきヤンが修道院の絵を頼まれます。絵の構想をしているのか、彼が修道院のなかの高いところで作業をしていると尼僧たちが足元を通りかかります。尼僧の1人が立ち止まり見上げると、そこには画家の姿。二人は見つめ合うというシーンで終わります。完全に主人公が生きていることを確認して終わるのです。

原作では、広場にいた画家が尼僧たちのグループを見かけるシーン。そのなかの1人が見覚えのある歩き方や身のこなし。そのうちに、その尼僧が画家に気づいて立ち止まる。そこへ風が吹いて顔のベールがめくれたものの、すぐに尼僧は人混みに紛れてしまう。
果たして、本当にソフィアだったのか?自分の幻想なのだろうか?と画家が思うところで終わるのです。

ハッピーエンドが好きな私ですが、どちらかと言えば、はっきりとは分からないけれど、でもこのあと主人公が生きていることを確認できるんだろうなぁ、とも受け取れる原作のほうが個人的には好きかもしれません。

最終的な感想

もし私が最初に原作を読んで映画を観たら、少々ダイジェストっぽく感じてしまう部分もあるかなと思いました。
むしろ映画を観てから原作を読んだので、細かい設定も分かったし、映画と原作でなぜこの部分の設定を変えたのだろうか?という部分まで考えることができて楽しかったです。
この作品がDVD化されたら、もう一度じっくり観て味わいたいと思います。

 

ABOUT ME
コアラ
館ファン倶楽部の管理をしているコアラです。 週末は映画館か美術館にいることが多いので、家族からは「今日はどこの館(かん)へ行くの?」と聞かれるようになりました。 皆さんのお役に立てるような館情報を提供していけたらなと思っています。

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